Opus3(閉架)

 

椅子に座った姿勢で、体を前に倒して花京院は動かずにいる。よく見ると体が間歇的に震えていた。時折大きく身震いをしている。
目には黒いゴムのアイマスクが巻かれている。半開きの口には丸いプラスチックのギャグボールを含ませられていて、吐き出さないよう紐で頭の後ろに固定されている。耳には柔らかいスポンジの耳栓がねじこまれていた。座っている椅子は北欧の有名なデザイナーのオリジナルで買えば百万はくだらない名作家具だ。台座はフレーム構造になっていて、通常はクッションなどの保護材を敷いて座る。今そこにはむき出しの下半身を痛々しく震わせて花京院が直接座らされていた。マニア垂涎の椅子に花京院の流した体液――汗や涙や精液や血液――が幾重にも染みを残していた。
服を前だけはだけられて両腕は椅子の背もたれに背面で固定されている。上腕部が鬱血しそうなほど強く革紐が巻かれていてほとんど身動きできない状態だ。大きく広げられた脚は椅子の脚部に革紐で固定されている。片方の足首に下着とズボンが堆くかさばって巻き付いている。
わざと全裸に剥くことはせず、いかにも突然縛られたように中途半端な格好にしているのはその方がより花京院に受け身な意識を植えつけるためだ。
あまり汗をかかない体質の花京院の額から汗が滴り落ちた。投じられた薬のせいで心悸高進が募っているのだ。日に当てたこともない腿の内側などは普段は透き通るような青白さを保っているのに、今そこは薄赤く染まり、小刻みに震えていた。今彼の体内では血圧が高まり、触覚等の外知覚が異様に敏感になっているはずだ。
何もかもを晒した脚の間で空条の頭部が蠢いている。花京院の性器を口腔で犯し続けているのだ。粘膜を刺激する淫猥な音に混ざってかすかなモーター音が聞こえている。花京院の後孔には電気仕掛けの小さな器具が押し込まれていた。
空条が頬をすぼめて顔を前後に動かした。大きな掌で性器を包み刺激を与え続けている。花京院が全身を震わせて、限界まで前のめりに体を倒した。うつむいた首筋に汗で頭髪が張り付いている。
ややあって空条が花京院の股間から顔を上げた。口元に唾液と共に白濁した液体が付着している。口を閉じて飲み込む仕草をした後で、スーツの胸元からハンカチを取り出すと顔と手を丁寧に拭いた。
立ち上がった空条は無表情に花京院を見下ろしている。巨体の見事なラインを引き立てる高価なスーツの胸元に手をやって身じまいをすると腰をかがめて花京院の耳栓を取り出した。背後に回り、花京院の耳朶に唇を当てる。それだけで花京院の肩が大きく跳ねた。
「……まだ合図をする前だったぞ」
花京院が小刻みに顔を左右に振り続ける。
空条は花京院の薄い耳朶を軽く噛んだ。手を伸ばして前をはだけたシャツの間に見え隠れする薄い紅色の乳首に爪を立てながらささやく。優しくさえ聞こえるその声は恐るべき内容を告げていた。
「次に失敗したら私の体でおぼえこませるからな」
空条のその宣言――花京院を強姦する、という言葉を聞かされた花京院の頬に鳥肌が立った。先ほどのように快感からではない体の震えを見て空条が満足そうに首筋に舌を這わせる。
「私に抱かれるのがそんなに嫌なら仕方がない。せめていくタイミングくらい私にあわせてもらわないと」
楽しげにそんなことを言いながら空条は背後から花京院の性器に手を伸ばした。射精したばかりの性器はそれでもすぐに反応を返して充実した重さを空条の掌に伝えてくる。それをゆっくりと扱きながら空条は花京院の耳や首筋に歯を立てた。あいた手で乳首を摘む。耳栓をせずに息を吹きかけているのは、花京院の性器を扱く音も聞かせたかったからだった。全身に、体内からも刺激を受けて花京院の性器が次第に強く熱を帯びる。空条は黙って皮肉な笑みを浮かべたまま手を動かし続けている。花京院の肩に力が入った。
「若いな、まったく。さっきあれだけ出したのにもう二度目を迎えようとしている。これで性愛に興味がないなどよく言えたものだ」
空条は低くささやいた。
「人間の体は刺激を受ければ誰でも同じ反応を返すのだよ。それはあなたでも同じだ、花京院。さあどこまで我慢できるかな」
首筋に腕を回して椅子の背に貼り付けるように体を押さえて空条は動作を大きくしていく。ギャグボールで言葉を封じられた花京院の喉から呻き声が漏れた。首を左右に振り続け、体をのけぞらせる。
「まだ駄目だ」
空条は動作をやめずに花京院の肩に噛み付いた。細い悲鳴が上がるのに構わず何箇所も歯型を残す。花京院の腿がかすかに浮いて痩せた脚の腱が浮かび上がった。
空条は凄惨な笑みを浮かべるといいぞ、とささやく。
自分の肩に顔を埋めるようにして花京院が空条の手の中に精を放った。その口元を汚す唾液が白く光っている。

 

 

 

 

 

空条の自邸に連れ込まれた花京院は、あれから熱を出して三日ほど起き上がれなくなっていた。彼の勤務先に欠勤の連絡を入れたのは空条だ。医師の診断書など簡単に偽造できる。父が使用していた書類も印鑑もすべて残されていたからだ。公務員なら或いはと思いすぐに提出できるよう用紙を揃えてから電話をして、それでも単なる風邪といいくるめ、診断書なしでも数日であれば休ませてもらっていいと言質を取ると、それから空条はおかしなことを始めていた。
あれだけ悪辣な攻撃で大きなダメージを与えた花京院を献身的に看護したのだ。
意識が混濁するままに泣き叫ぶ花京院をあやし、なだめ、辛抱強く面倒を見た。下腹部に負った裂傷と大量の出血で衰弱した花京院に水を与え、手当てをし、抗生物質と鎮痛剤を投与して、さらには寒がる花京院を抱いて暖めることまでした。
不思議なことに花京院は、朦朧とした意識の中で迫害者である空条を拒まずにむしろ求めさえしていたのだ。自分の声や手の感触がさらにひどい悪夢を呼ぶかと観察をしていたが、花京院は空条が側を離れることをより恐怖として受け止めているようだった。
苦痛や恥辱を与えたのは空条のはずなのに、空条の手を掴み、命綱のように離さなかった。悪夢に悩まされて朦朧としたまま声を上げて泣く花京院を胸に抱き、空条はそれまで感じたことのない奇妙な思いに囚われていた。
熱で体を震わて歯をがちがちと鳴らして寒さを訴える花京院には何の作為があろうとも思えない。子供のように手放しの泣き顔でしがみついて来る傷だらけの痩せた体を抱きしめて、空条はこの思いは何なのだろうと自分を分析し続けていた。生まれてこの方一度たりとも感じたことのない思いである。
そのような惑乱にも似た感覚を呼び覚ます花京院を、空条は敵でも見るかのように強く凝視し続けた。
「さむい……」
うわ言のように繰り返す花京院は目を固く閉じて開かない。真っ青な顔には苦悶の表情しか浮かんでいない。もともと骨の細い体だったがわずか半日ほどの間に更にひどく憔悴して病人と変わらないようなやつれた面貌に変じていた。
それでも花京院は生来の高貴さを減じてはいなかった。寒さと痛みに全身で耐えているその姿はこんな際でも凛然として流す涙も汗も汚穢の感じを与えなかった。
空条はベッドの相手を痛めつけて泣き言を言われることなら慣れていた。そのような趣味を持たない相手をわざと鞭打って手ひどく扱ったこともある。だが誰が相手でもじきに飽きて退屈しかしなかった。どのように趣向を凝らしてみたところで、所詮体の交わりはそれだけのものなのだ。美貌や才知が花京院よりある者を空条は知っていた。技巧や手管を知っている者も多くいる。だが花京院はこれほどまでに無残な暴力を揮われてもどこかで無垢なままだった。それは空条の研ぎ澄まされた感覚でよくわかる。花京院はきっとどのような異常な手段で体を開かれたとしても、その本質には一歩も立ち入らせないのだろう。彼自身と彼の体に加えられた行為とは何らの関連を持たないのだ。つまりは自分は彼に影響を与えることができないのだ、と空条は歯噛みした。
自分がしたいのは本当は性行為などではない。花京院を屈服させ、自分なしではいられないように作り変えてやりたいのだ。誰にでも親切で冷たい優しさを見せる彼が、自分を他と同列に扱ったのが許せない。これまでに出会った幾多の犠牲者たちのように自分に惚れこみ溺れ切って、そうして情けなく愛を乞うさまを見たかったのだ。
今、腕の中に抱いた花京院は衝撃と高熱のせいで混乱して自分をまるで親か保護者のように求めている。触れれば寄り添い、抱けばしがみついてくる。だがそれは彼にまともな自覚があってのことではない。溺れる者が藁を必死に掴むように、命の瀬戸際に追い詰められた花京院が他の命を求めているだけなのだ。
今の花京院が欲しがっているのは誰か他人の体温で、それは自分でなくても構わないのだ。それなのに、人恋しさを全身に滲ませて擦り寄ってくる花京院を怯えたように見守り続け、かつてないほど優しい手つきでいたわっている空条である。
拉致し去り、自分の刻印を体に押して永遠につないでやろうと思ったのに。体を抉り生涯忘れられないほどの苦痛と快楽で正気を消し去ってやろうとすら考えていたというのに。
いつの間にか柄にもなく愛しいと、大切なのだと思い始めている自分に空条は懸念を感じた。こんな感覚は知らない。こんな感情はいらない。
自分は征服者だ。気に入った誰かを狩って獲物として屠り、倒した相手は捨て去る、これはゲームのはずだった。
それなのに。
かつてない危機感と、自分に対する不信感を募らせながら抱く腕に力をこめて空条は闇の中で目を光らせていた。

 

 

 

 

三日目の朝、花京院はやっと目を開いた。室内には早朝の光がさしこんで白く漂白されたような明るさが満ちている。最初に目にしたものが自分を見守る空条であることに、花京院は明らかに驚愕し、体を起こそうとして空条に阻止された。
「……っ!」
見開いた目のすぐ先に空条の緑色の目があった。
花京院はすぐには状況を把握できずにいたのだろう、呆然としたまま動かずにいる。ふたりとも服を着ていない。重なった体の皮膚の熱さが花京院を動かした。
「な、何……ここはどこだ!?」
叫んで両腕を掴む空条から遠ざかろうともがいている。上掛けが寝台から滑り落ち、互いの姿に気がつくと花京院の頬が真っ赤に染まった。暴れる彼を体を起こして抱きこむと空条は花京院にささやいた。
「おとなしくしなさい」
「離せっ!」
「ここは私の家だ。体は何ともないのか」
「――!」
途端に怯んだ表情に変わる花京院はこわごわと体を動かした。
「怪我をしていた。今は薬で抑えてある」
無表情に続ける空条を、花京院は唇を震わせて見上げている。
「三日だ。あの日から二日欠勤した」
「――図書館!」
「連絡は入れてある。今日はあなたはもとから休みの日だ。いちにちゆっくり休むがいい」
「や……」
休むなどできるものかと花京院は叫びたかったに違いない。
だがその叫びは空条の唇でふさがれて言葉にすることはできなかった。両腕を鉄のような力で掴まれてのけぞった背に鳥肌が立つ。花京院は自由になる脚で思い切り空条の腹を蹴り付けた。その足首を掴むと空条はぐいと引いた。仰向けに倒れた花京院の上にすかさず体を乗り上げて押さえつける。
「元気がいいな」
「離せっ! どけよ!」
花京院は怒りに我を忘れて暴れ続けた。余裕すら漂わせながら空条はしばらくその動きを楽しんだ。生まれてから一度も取っ組み合いの喧嘩すらしたことのなさそうな完全に素人の動きだった。花京院が見た目通りの完全なインドア派なら体力とて皆無だろうと空条は冷たい目でぶざまな抵抗を観察していた。
寝たきりで食事もしていない花京院はすぐに息を切らせ動きが弱くなっていく。そら見たことかと空条は腹の中でせせら笑い、花京院をうつ伏せにひっくり返すといきなり顔を踏みつけた。衝撃で悲鳴を上げる花京院の頭を寝台にねじこむように体重をかけていく。そのまま顔に乗り上げたなら花京院は死ぬだろう。頭蓋骨は圧力に脆い。簡単に殺せるな、と空条は思い、軽蔑したような視線を落とした。
花京院は脚をばたばたと動かしている。空条の脚を両手でつかんで押しているがまったく動かすことはできずにいた。長い脚で踏みつけた顔。空条は片脚は花京院の腰の上に膝を乗せ大きく脚を開いている。空条の性器が花京院の背に触れて、途端に花京院の呼吸が乱れた。
「手当てをしたのは私だが、どうやらまた引き裂いてしまうことになりそうだな」
「……っ……!……」
寝具にうつぶせに押し付けられた花京院がひっきりなしにくぐもった叫びを上げている。その小さな尻に手を置くと悲鳴のトーンが高く上がった。双球の間に指を差し込み肉を割ると、そこはまだ幾筋かの瘡蓋が残っている。その奥に見える生々しい鮮紅色は花京院の内臓の血の色だ。
花京院が空条の足首に爪を立てた。非力ながらも力をこめて脚をどうにかどかそうともがいている。空条は顔から脚をどけた。花京院が横を向いて激しい呼吸音を響かせた。腰に乗せた脚に更に力を入れると花京院の背がのけぞる。
「離せっ! どいてくれ。ぼくを帰してくれっ」
空条は残った脚も花京院から遠ざけた。
途端に起き上がった花京院が青い顔で寝台から飛び降りた。広い部屋の片隅に寄せた大きな寝台は支柱つきで天蓋がわりに大きな布がかけてある。床は木で、黒っぽい部屋の調度はみな戦前のものだった。空条の先祖が集めた貴重な家具と、壁一面を覆い尽くす――本の山。
花京院は一瞬その膨大な量の書籍に目を止めた。
裸の体から瞬間、こめられていた力が抜けて体の線が柔らかく変わる。
夢見るような目の色を、しかし花京院はすぐに変えた。
「……!」
振り向いて、まだ寝台の上に座っている空条を見てじりじりと後ずさっていく。目指しているのは突き当たりの大きな古いドアなのだろう。二箇所ある出入り口のうち、奥の図書室に花京院が向かっていることを教えるつもりは空条にはなかった。裸の片脚を立てて腕を乗せ、動かずに花京院を見守っている。

朝の光の中で、白い細い体を晒した花京院は植物の茎のようだった。薄い茶色の頭髪は花の花弁というわけか。空条は眺め、それにしても骨格が浮いて見えるほど痩せてしまったのは惜しいことだと思っていた。拒食の気でもあるのだろうかと考えて、花京院が勝手に奥の部屋に入っていくのを放っておいた。
寝台横のテーブルに必要な道具があるのを確認する。
簡単に体を壊して発熱してしまうのなら、準備は入念にしてやらないと。
寝台を降りて椅子にかけておいたバスローブを羽織ると空条はゆっくりと奥の部屋に入っていった。

ドアを開けたまま花京院が裸の背を向けて立ち尽くしている。
その場所を知らない者が迷いこんだときに示す反応だ。
仰天して動けなくなる。それは来客が示すよく見慣れた反応だった。

一介の私人の家にあるとは誰も想像できない規模の、知恵の集積。叡智の殿堂。
そこは二階までの吹き抜けになっていて、更に上は一階分の高さのある大きな円天井になっている。三階分の高さのある図書室には空条家の人間が代々集めた書物が収められていた。
黒光りする古い木材はしっかりとした厚みがあり、棚は余裕を持って本を収納している。部屋の中心には螺旋階段があり、各階への通路になっていた。移動式のはしごが数箇所にかけられていて、部屋には書見台やソファ、フロアライトが点在している。青々とした観葉植物の鉢も置かれている。豪奢で整頓が行き届き、貴重な書籍が揃っている。読書人の夢のような豪奢で機能的な部屋だった。

空条が背後に立っても花京院は反応しない。爪先立ちで背伸びをして天井のドームを仰いでいる。何を思ったのか片手を伸ばしてドームに向けて差し出した。
小さな声で呟いている。
「旅暮らしだと言っていたのに……」
「ああ。そうだが」
「植物がどうして枯れていない? それに空気が澄んでいる。きちんと換気して風を通している部屋だ」
「手伝いを頼んでいるからな」
「そうなんだ。ここに自由に出入りできるのか?」
「ああ。父の古くからの友人だ。簡単な掃除や換気をしてもらっている」
「心配にならないかい? これだけの本……」
「ならないな。俺のように手癖の悪い人ではない」
「そうなんだ。――本が幸せそうにしている」
どこか上の空で話す花京院は空条の方に振り向かない。自分が裸であることも、空条が後ろにいることも意識の外にあるらしい。
ふらふらと壁際に歩いていく。
「すごいコレクションだ」
棚に近寄るとはっと顔に手を当てた。
「眼鏡……ぼくの眼鏡が……」
「あなたは目が悪いようには見えないがな」
空条はドアの横の壁にもたれかかって腕を組んだ。
「近視だ。それもひどい近視。裸眼だとよく見えない……ああこのへんは……」
花京院は背をかがめてコレクションのシリーズ名を口にした。英文のそれを嬉しそうに目で追って、だがそうするためには本に顔がくっつくほど近づけなければいけないらしい。
「目が見えない。すみませんがぼくの眼鏡の所在をご存じないですか」
棚に手をかけて顔だけこちらに向けて言う花京院はすっかり司書の顔になっていた。
空条はこらえきれずに含み笑いを漏らし始めた。次第に声が大きくなり、哄笑に近くなっていく。腹を押さえて笑うだけ笑うと空条は掌で目元を押さえた。
「ったくあなたという人は……」
「――ご存知ないですか。……ぼく帰ります。新しい眼鏡を作らないと仕事に支障が。明日から働くことができなくなる」
花京院はそう言うとこれまでのことがなかったかのように、背筋を伸ばしてすたすたと歩き出した。素足を伸ばして空条の横をあっさり通り過ぎる。
寝台まで戻ると困ったようにまだ図書室にいる空条に声をかけた。
「裸では帰れない。ぼくの服を……」
「服はそこにある。眼鏡はあなたの勤務先の地下書庫だ。――本は私が預かっている」
空条はゆっくりと声をかけた。
花京院がびくりと背を波打たせた。青ざめた顔で空条の方を見る。
「忘れていたか」
「……」
空条は部屋に戻った。
クリーニングに出してきちんと整えられた花京院の着衣一式を乗せておいたテーブルから、服を取り上げ花京院に渡す。花京院はおぼつかない手つきで下着から着け始めた。
「昨夜までのことを覚えているか?」
花京院は訝しげに目を細めて空条を見ている。自分にすがって泣いていたことを記憶しているか、という意味で尋ねた自分を空条は僅かに恥じた。その質問には覚えていてほしい、という願いがこめられていたからだ。
この空条が花京院の意をうかがうような真似を。空条は自分に腹を立てていた。
花京院がぼんやりしたまま何も答えなかったことにむしろ安堵し空条は言葉を続けた。
「『人質』が私の手元にあることは忘れない方がいい。でなければあのまま私がいただいて『幸せな本』の仲間入りをさせていただこう」
「……返してください」
「まだ駄目だ」
「窃盗です。犯罪だ」
「――知っている」
冷静に言う空条に、花京院は言葉に詰まっている。黙ったまま身支度を整えだした花京院を見下ろして、空条は口調を変えた。
「あなたをつなぐ鎖としてはどのくらいの強度になるのかな。振り切って逃げられるほどの強さしかないのだろうか。それとも私の手綱に変わるのだろうか」
「あの本を悪用させるわけにはいきません。穏便に済ませようと思っていたけれど、ぼくは警察に行きます。全部話す」
「ほう」
「上司にも報告します」
「私に何をされたかも?」
揶揄を含んで尋ねた空条に向かい、花京院はきっぱりと頷いた。既に衣類はすべて身に着けている。
「ええ。必要があるのなら。……そうしたらぼくは多分解雇される。でもあなたの犯罪をこのまま見過ごせない」
「……そうか」
「本を返してください。地下でも言った。本さえ戻ればぼくは……今までのことは、別に……」
憤りを隠せずに、だが薄く染まった頬の熱さを隠したいかのように顔を背けて花京院は口ごもる。
「私も言った。――それでは困る。私はあなたで、遊びたい」
「遊ぶ……?」
「そう。地下でしたようなことをあなたでしたい」
花京院はネクタイを結ぶ手を止めた。空条をじっと見つめる。近視の人間にありがちなどこか焦点の合わない目ではなく、しっかりと光を浮かべ、空条に注意を集中している。
「……本当の目的は何なんですか」
花京院は疲れたように呟くと、空条に近付いた。
「あまり見えない。すみませんがあなたの目を見せてもらえませんか」
手を伸ばし、空条の方に歩いてくる花京院の手を引いて空条は肩をつかんだ。
「どういうつもりだ」
「知りたいだけです。あなたが何を言っているのかわからない。理解できません」
花京院は子供のように無垢な表情で空条を見上げた。
「ぼくが何だと言うんです? あのように貴重な本と引き換えにできる何もないのに。ぼくなんかにどうしてこんな執着を向けるのです?――それになぜ暴力から入ったのですか。ぼくがあなたに好意を持っていないと思いこんでいたのですか?」
空条は驚いて目を瞬かせた。
「あなたが示す気遣いや、ほんの僅かな共感ですら嬉しいものだったのに。少しずつでも親しくなれればいいと思っていたのはぼくの方だけだったのですか。……あなたがあんなことをしなければ良かったのに。本を盾にぼくを言いなりにさせようなんてやり方がひどすぎる。どうして普通の友人ではいけなかったのです? それがとても残念です」
毅然としてそれだけ言うと、花京院は空条を見上げて黙り込んだ。
ふたりは長い間互いの目を見つめあっていた。制圧し支配してのけようとしていた空条は花京院の思いがけない逆襲に合い言葉を失くしていた。
花京院の目は静かだった。
「……本を返してください」
空条は反射的に「駄目だ」と答えていた。
「なぜ」
「……返せない」
「あれはぼくを押さえる鍵にはならないですよ……」
「そんなはずはない。あなたはあれを取り戻すためだったら何でもするはずだ」
「だからぼくに何をさせたいのですか。罪を犯してまでどうしてそんな。――先生、しっかりしてください。あなただって暇ではないはず。ぼくになどかまけていないで研究を。学問を続けてください。あなたはしてはいけないことをしているんです。これが表沙汰になったら先生だってただではすまない。ぼくは聞かれたら何もかも答えますよ。地下やトイレで何をされたかも。ぼくがあなたを怪我させたことも。――首の傷はもう大丈夫ですか。……最初に謝罪しようと思っていたのに」
「謝罪だと?」
空条は形相を変えて大声を上げた。
「ええ」
「俺に謝罪?」
「そうです」
突然、堤防が決壊するように空条のかぶっていた仮面が剥がれ落ちた。
「おまえこそどういうつもりだ。俺にあれだけのことをされたのに『謝罪』だと? ふざけるな!」
「あなたの首を切りつけて血を流させた。それはぼくの攻撃の結果だ。それについては謝りたかった」
「花京院……!」
空条は鬼のような形相で肩を掴んだ手に力をこめた。
「ふざけたことを言うな! 何が謝罪だ! おまえはどこまで俺を愚弄すれば気が済むんだ。それとも本物の阿呆なのか!?」
「もうやめるんだ。あなたが本当にしたいのはこんなことじゃないはずだ」
「なら言ってみるんだな。俺が本当にしたいことが何なのかを」
「――赤の他人のぼくにそれを言わせるのか」
「俺たちはもう他人じゃねえ。言ってみろ花京院っ!」
花京院は背伸びをすると空条の耳元で素早くささやいた。
途端に空条の顔色が変わる。花京院を見下ろした目に動揺が現れている。
目が合うとまるで怖がってでもいるかのように花京院を手荒く突き飛ばした。
足元を乱し、花京院が床に座り込む。
拳を握って立ち尽くす空条を見上げて花京院が笑い出した。口元に手を当ててくっくと喉で笑っている。
「……図星だろ」
見上げた顔に白く涙が流れていた。
「ぼくが読んだ無数の本には異常心理の詳述って奴は生憎と含まれていなかった。だから拉致被害者の説得術、なんてものの応用じゃない。これはぼくのオリジナルな物の見方だ。――ぼくにはそう見えた。当たっていると思いますがね、空条博士。これで最後です。……本を返してください。ぼく『で』遊びたいならつきあいます。どうにでも好きにすればいい。ぼくになど、あなたはすぐに飽きるだろうから。あなたが欲しいと自分に言い聞かせているのはぼくのこの貧相な体だけなんだから。でもぼくは言っておきますがあなたを決して許しません。あなたにできるのは、せいぜいが――ぼくの体を壊すことくらいだ。心には手をかけられない。ぼくはあなたを許さない。ずっと思っていた。……いつか殺してやる、って」
見上げる花京院の目から幾筋も涙がこぼれて光っている。
「こう言えばあなたは安心するんでしょう。……馬鹿な人だ」
花京院は顔を覆って泣き出した。声を忍ばせて泣く花京院を引き寄せて空条は胸に抱きしめた。震える唇を唇で覆い、掌を顔や首に這わせる。空条がスーツを脱がせても、シャツに手をかけても花京院は逆らわなかった。ただ涙を滴らせてうつむいているだけだ。
空条は目を合わせずに花京院を裸にすると抱き上げて寝台に横たえた。無言のままで、泣き続ける花京院の上に覆いかぶさっていく。
出合って初めて、ふたりはその日、暴力の介在しないセックスをした。

 

 

 

 

 


押し黙ったまま後始末をしてもう一度、今度こそきちんと服を着込んだ花京院のために、空条は車を出して一緒に眼鏡を作りに行った。極度の近視で矯正しないと目がよく見えない花京院のために、適当な店に入るとフレームを幾つもかけさせて機能とスタイルを検討して選んでやり、レンズもすぐに入手できるものを指定して一時間後には花京院は新しい眼鏡を手に入れていた。支払いは空条が済ませ、花京院は逆らわずに黙って受け取った。
それからまた車で空条の家に戻ったのだ。

奇妙に口数の少ないふたりの間には言葉以外の伝達手段ができたとでもいうように、どちらかの意向はどちらかに伝わり、無言のうちに動いているのだった。
かといって心を許しあったわけではない。
少なくとも空条には、花京院を力で制圧する以外の近付き方は頭になかった。
長年連れ添った夫婦のようになぜか互いの思いがうまくマッチし、あれこれ考えなくとも動ける状態は非常に安逸で好ましかった。
それでもこのままの関係を続けるつもりは空条にはない。いや、続くはずがないと信じ込んでいる。
花京院の見せた不気味なほどの静けさと大人しさは過去に例のないもので、大勢を踏みにじってきた空条には過去経験のない態度だった。
空条はあの性交を記憶から消し去ろうと必死だった。
あれほど静かで穏やかな交わり方があったことを空条は初めて知ったのだった。
触れる花京院の肌は静かで、空条の焦慮や性急さをすべて打ち消してしまっていた。
ただ肌を擦り合わせるだけではなく、確かに何かがそこにはあった。泣きやまない花京院は水が流れるような自然さで空条の動きを受け止め次を誘った。
立場が完全に逆転していた。慣れないやり方に戸惑う空条を、練達の士であるかのように花京院は誘導し、体よりも心が先に溶け合うような不思議なセックスを与えたのだ。

空条にとってそれは始めての経験だった。何よりも彼の涙を見ていると自然と従う気になって普段の粗暴さも変則性も少しも顔を覗かせなかった。
普通の性交。
そんなものがあるとして、だが、空条は初めて他人と寝た気がしていた。
受け入れていながら流されない。拒むではないのに陥落されない。花京院は静かに空条を高みに誘い、いつもは乱暴に叩き壊して破壊する空への扉をふたりは同時に押し開けていた。
彼の中に放ったとき、空条は確かに星の世界を見た気がしていた。
自分が彼に触れる手が、いつになく静かだったことはわかっている。
花京院は口数こそ少なかったが、その手に常より反応し、一度果てた空条を更に駆り立て追い上げた。
交わす口付けの熱さに、まるで花京院が自分を恋人のように扱っていると途中で思い、その想像になぜか激しい廉恥を誘い出されていた。
自分を、愛してでもいるように扱う。そう思い、空条は一瞬だけその空想を自分に許した。
別の出会い方をしていたら、花京院はこのように自分を愛しいと思い、どこまでも従順に優しく受け止めてくれたのだろうか。
なぜかしら涙すら浮かびそうな感情の奔流が体を懊悩に叩き込む。
どこまで触れても滑らかな体のすべてを開いて見せて、花京院は泣き続けた。

だが穏やかだったのはそこまでだった。

事が終わると花京院は執拗に本の返却を繰り返し口にして空条を苛立たせた。
本を取り戻したら決してなびくはずはない。このように優しく穏やかに振舞うのは本を返してほしいからだ。そう決め付ける空条のその変質的な執着は本に固着して動かない。絶対に返さない、と花京院に言われる度に決意を強く固めていた。

花京院にもわかっていた。自分にしたように暴力で支配を目論み、けれども飽きたら捨て去る気だ。本で支配しようとした癖に、本を取り戻そうとすることで更に本に固着している。堂々巡りの悪循環だ。
けれどもわかっていても空条に願うことはやめられなかった。

最後には意地の張り合いになる。

目覚めた花京院はその週末を空条と共に過ごし、数え切れないほど体を重ねた。ふたりは飢えた獣だった。互いの体に欲望を打ち込みあい、これまでの乾いて孤独だった日々を消すことに夢中になった。交わす言葉や、相手の仕草のひとつひとつに裏の意味、別のニュアンスを含ませた密かなかけひきを孕む危険な遊びにのめりこんだ。
花京院「で」遊びたい、と空条が言ったのは伊達ではなかった。空条はこれまでの日々に過ごした無駄で空虚な性愛を埋め合わせるように花京院に溺れこみ、花京院はこれまでの空白の日々を塗り替えるように空条にのめりこんだ。

本を返せ、返さない、の押し問答は最後にはただの睦言に変わり、返してほしければこうしろと要求する空条と、返してほしいから何でもする、と決めた花京院との間にはどんな無茶も無理も存在しなくなっていた。
本を盾にした空条の、その本当の悲しさを花京院は体で受け止め、そんな空条に見込まれた自分の哀しさを空(くう)に向かって声もなく叫び続けていた。
吐く息が熱ければ熱いほど、醒めた意識が胸の空虚さを際立たせる。僅かな体液を搾り出すために、歯を食いしばり、汗を滴らせ、奇妙な切実さで自分の上で何かを急ぐ空条の背に爪を立て、粗暴に扱われることに抗議した。
束縛も殴打も愛撫も射精も、すべて意味を失くして滑り落ちていく。
快楽も苦痛も、それはそれでしかないのだと、僅かな時間に悟ってしまった花京院の目は静かなままだった。何をされようが揺るがない強さを秘めて、だが目は常に伏せられていた。まるで空条を脅かさないためだけに、自分の強さを秘め隠しているように。

彼を苦しめ、支配しているつもりで、実は彼に囚われ、離れがたくなっているのは空条の方なのだ。花京院にはそれがわかった。彼が自分の体をどのように扱おうとも、もう恐怖の届かない領域に花京院はいる。彼の心に恐怖はなかった。

言葉を失くした獣のような交わりを続ける空条は、ふと我に返って花京院は天から降りた天人女房(あまひとにょうぼう)なのだと思い、空を舞うための羽衣を隠し、天女を犯した農夫が自分なのだと、どこか遠くで考えていた。この世の者ならざる天女を得て、けれども農夫は幸せだったのだろうか。生まれも種族もまるきり違う美しい命を我が物にして、通わない心を必死に追って。

抱いても抱いても遠い花京院を、どうしたら手に入れられるのだろう。
空条の感じている痛切な悲哀が、彼の緑の目を限りなく深い色に変える。
空条にも今はわかっていた。自分のことですべてを埋めたいと願っていたのは空条なのに、痩せた白い体に取りすがる空条の方が花京院で世界を満たし、溢れさせているのだった。

夢見たものは何だったのか。空条は何を思い、何を得ようとして花京院に嗜虐を強いたのだろう。もうそれすらもわからぬほど、混乱し、これまでの自分をさらけ出し、空条は身も心も花京院に溺れていた。
愛しいと強く思い、永遠に果てずに彼の中にいたいと願う。けれども高く登れば登るほど失墜の時の哀しみは巨大になる。彼に穿ち、血を流させて強いている行為の根源的な虚しさに身を焼かれながら、それでも空条は彼を犯す動作をやめることができずにいた。

最後に頬を白く濡らしたものが花京院の涙だったのか、それとも自分のものだったのかもわからないまま、下肢を抉られ続けてとうに意識を手放した花京院を強く抱き、空条も惑乱の中で眠りに落ちて行く。

夢は見ないだろう。――いつものことだ。眠りの中でも俺はひとりだ、意識を失う瞬間に空条はそう思い、腕の中の暖かな素肌に頬をこすりつけていた。その体温に、生まれて初めての不思議な気持ちを感じていた。拡散する意識の中で、ああこれが安心というものなのだな、と空条は思い、綺麗な微笑を口辺に刻んでいた。

 

 

 

 

 

 

先に目を覚ましたのは花京院の方だった。
ひどく喉が渇き、体を動かすと目覚めない方が良かったと後悔するほどあちこちに痛みが走る。
空条の太い腕が胸元と腰に回されている。眠っているとは思えない力で体を抱かれ、身動きが取れなくなっていた。
水が飲みたい、花京院は思い、けれどもどうすることもできずに大人しく抱かれている。横を見ると目を閉じた空条の顔は意外に幼い。そういえば彼は自分と同じ年齢のはずだと花京院は思い、何かの冗談のように完璧に整った顔立ちを至近距離から眺めていた。
これほどの美は悪とは相容れない物に思えるのに。彼が自分にしたことを思えばこの顔は美しい悪魔の仮面なのだろう。その空条がかすかに微笑んだまま眠っていることに驚きを感じ、まじまじと見入っていた。
自然な、透明感すら漂わせた優しい微笑を浮かべている。花京院は見えない目で再確認しようと顔を近づけた。
やはり笑っている。――笑ったまま眠っている。
花京院は小さく呟いてから溜息をついた。
「……何て奴だ」
自分をこんなに痛めつけておいて、これほどに幸せそうに眠られては。
寝覚めが悪いなんてことないんだろうな、こんな奴には。
花京院はそう思い、呆れ返っていた。
勝手な人だ。
そう思うと憔悴して苦しんでいた自分が滑稽にすら思えてくる。こんなに優しい顔で眠るのに、起きたら何て悪い子なんだ、まさに『博士の異常な愛情』だ。この人のことをドクター・ストレンジラブと呼んでやろうかと思い、花京院は少し笑った。
図書館に来る子供の中に、空条のような子がときどきいる。そうだ、この人は大きな子供だと花京院は考えていた。体が大きかったり心が聡かったりして、人より早く成長して見える子によくありがちだ。何でもひとりで抱え込んで、子供の視点で解決を望む。知識も経験も圧倒的に不足しているから、それまでにやったことのある方法でしか物事に当たれない。そうして人との関わりを拒むから別のやり方を学ぶ機会を得られない。利発で聡明で、けれども本質的には未成熟だ。
空条ももしかしたらそういう子供だったのかもしれない。花京院は思い、綺麗な寝顔を見つめ続けた。自分を蹂躙し、拘束だの強姦だの、一人前のことをしているようだが、実際にはそれが自分や相手にどんな意味を持つのかをまったく知ろうとしていない。ほしい物をまっすぐに掴み取っているようでいて、実は一番遠回りをしていることに気がつかない。
この人も早くに大人になってしまい、それきり心を閉ざしたのだ。自分のやり方で押し通すのが一番いいと信じ込んで。彼の知性も教養も並大抵のものではない。それらを駆使してこれまで挫折を知らずに来たのだろう。彼はおそらく「他人」を知らない。
……まだ彼はこの世に生まれていないのだ。
花京院はそう思い、深い溜息をついていた。
そんな人に見込まれた自分は一体どうなってしまうのだろう。何をどうされようとも自分は自分でしかないのに。どうしたら彼に自分をわかってもらえるのだろう。
自分はただ普通に働いて、本を読み、本とだけ付き合って静かに年老いて行きたいだけなのだ。何も望んでなどいない。このように激しい関わりなど生涯知らずにいても良かった。誰かを好きになったことも、好かれたこともないと思う。告白してくる人は大勢いたが、そのどれも本気ではなかったのだろうと考えている。でなければ空条にされたように押し切られ、流されるままに交際をしていたはずなのだから。人に対する要求が少ない自分を思春期には訝しく思い、無理に女性と親しくなろうとしてみたが、淡い関心はただそれだけのものでしかなく、ひとりが好きなことを思い知らされるばかりだった。
本当に、ただ静かに暮らしていられれば良かったのに。
仕事に熱中したのだって、ただ本の側にいたくて、本と過ごすことができればとただそればかりを考えてしたことだ。新人だからと馬鹿にされまい、軽く見られまいという功名心も確かにあった。だがそれは僅かなもので、実際には本の良さを伝え、ひとりでも多くの誰か他人に、一緒に本の世界に来てほしいと、その思いの方が強かった。
生来孤独を好む自分には、生の人間はきっと刺激が強すぎたのだ。他人の体温が煩わしかった。喜怒哀楽が恐ろしかった。周りの誰彼のように生々しい剥き出しの感情をぶつけ合うのが嫌だった。水のようにさらさらと何にもひっかかることもなく、ただありのままに流れて行く。そんな毎日が欲しかった。
だから頑張ってこれたのだ。人間を愛する気持ちに偽りはない。けれどもそれは書籍に封じられた、一度濾された「人間」だった。恣意的に手に取っていつでも気軽に向き合える、自分を害さない、自分を侵食してこない、薄められた「他人」だった。
そういうつきあいで良かったのに。
本ならば千年単位で時を超えて別の世界の誰かに会える。会話を楽しみ冒険をして一緒に戦うことすらできる。夢も希望も愛も絶望も、本の中に既にある。それを読むことで再現し、そんなことだけで満足していた。来館者には変わったお客様がいるし、職員にも確かにいる。だがそういう一部の人間に心を煩わされないように自分を訓練し、花京院はいつでもするすると世の中を渡ってきた。
自分も仮面をつけていたのだ。
その認識に頭を殴られたほどの衝撃を受け、花京院は目を見開いた。
自分も早くから大人になってずっとひとりで生きてきたのだ。
盾の両面、裏表のようなもの。
空条は人を攻撃し、自分は人から自分を防御した。
どちらも他人を拒むことでは同じだったのだ。

孤独。

それがふたりを近づけたのか。花京院はその思考を追おうとした。
だがその前に空条が目を開けた。
無防備な青年の顔が一瞬で硬く閉ざされる。目覚めた瞬間の、雨に現れた若葉のように明るく優しい色味を帯びた緑の目が暗い光で覆われた。花京院はその瞬間――仮面をかぶった瞬間の空条の顔の険しさにかける言葉を見失った。そのように冷たい顔で見られると、体が勝手に強張ってくる。意志とは別に自動的に体が緊張してしまうのだ。
顔色を変えた花京院を更に強く抱きしめると、空条は花京院を巻き込んで体の下に組み敷いた。もう無理だ、これ以上レイプされたら本当に死んでしまう、花京院の顔に怯えが走る。憔悴した顔は、目の下に紫色の隈が浮かんで壮絶に艶めかしかった。嗜虐の美とでも呼ぶしかない気配が、僅か数日のうちに花京院に備わっている。
だがあれほど精力的に彼を穿っていたせいか、空条はそれ以上何もする気はないようだった。唇を落として軽く口に触れると首筋に顔をねじこむようにして動かなくなる。裸の皮膚が接する場所がひどく熱く感じられて、花京院は喉の渇きを訴えた。
「……水をもらえないだろうか」
「――ああ」
体を起こした空条は身軽に寝台を降りた。巨大と言ってもいい体躯がどうしてこんなに静かに動くのだろうと花京院は見守っている。そういえば彼はよく自分にまったく気付かれないで自分の真横や真後ろにいた。あのころは少しも彼を怖れなかった。花京院は思い出し、何と遠い場所に自分は来てしまったのかと目を閉じて考えていた。
空条は花京院に水を飲ませ、朝食を用意し、風呂の支度をした。
花京院が戸惑うほどまめまめしく世話をする。
あの、言葉がいらない不思議な感覚はまだ続いていた。
数日、肌を合わせただけでそうなるものなのかと訝しく思い、それでもどこか危険でどこかで慰藉を孕んだその沈黙の時間を、花京院は意外に思いつつも受け止めていた。
「家に帰るよ」
水を飲み、食欲はまったくなかったので食事の真似をして、風呂に入った花京院はそう言って空条を見た。今は寝室を出て居間に移動している。時代がかったこの家は天井が高く、ひと部屋が広かった。居間は越板が四方を囲み、漆喰の白さが古びて落ち着いた洋間だった。天上には小さなミルクガラスの照明が吊られていて、それが百合の花が開いているようなとても見事な細工だった。向かい合った革張りのソファにそれぞれ腰をかけている。空条がいつもの無表情に戻り、それでも自分の動作から目を離さないことに威圧感を感じながら花京院は話しかけたのだ。かなり思い切った発言だったのだが、空条は頷いた。
「……ああ」
案に相違して彼があっさり同意したことに逆に驚きながらも、花京院はほっとしていた。
「明日は仕事に行かなくちゃ。どのくらい書類が溜まっているかと思うと怖いくらいだ」
「図書館というのはそんなに忙しいものなのか」
「いや。普段はそうじゃないんだ。大規模な展示会をすることになっているからその準備で大変なんだよ」加害者と被害者のはずなのに、ふたりは世間話と変わらぬ口調でそんな話をしている。
「……紀元前三千年前から、書付のある粘土板は存在していた」
「そうだね」
「シュメールだったか」
「ああ。安くて簡単に加工できたからね。粘土板の時代は長い。粘度を引っ掻いて記録するのにふさわしい書法が楔型文字だ。シュメールがアッカド人に征服されたときに、その楔型文字が流用された。バビロニアとアッシリアも同じことをした。知ってるかい、だから記録のためのまるで共用語みたいに、自分たちの国の言語と、楔型文字と両方知っておく必要があったんだ。当時は大変だったろうと思うよ。記録を残すための言葉が、記録になっているんだから」
「そうだな」
「楔型文字は単純な楔と線でできているけど、発音と意味を表す記号は数百も組み合わせがある。気が遠くなりそうだ」
「確か最初の記録は物の数だったそうだな。持ち物としての動物や壷や籠の数」
「そうですよ。詳しいな。それから裁判の記録。今の時代とほとんど変わらない。婚約や離婚、借金や物の貸し借り。在庫の目録、請求書、領収書……人間ってのは三千年前から変わらないのかもしれないね」
そんな風に静かに話し合いながら、花京院は空条がいつもこうだったらいいのにと心の中で強く願っていた。数日前の、寡黙で、親切で――しかも自分にだけ! ――何を考えているかわからないのに、少しも怖くはなかった「空条博士」でいて欲しかった。
「ご存知の作家かわかりませんが……ぼくはウェルギリウスが好きで、ユリウス・カエサルの死で起こった抗争から彼の財産を守ったアシニウス・ポッリオにはいくら感謝してもしきれない。それに彼はカエサルが目論んでいたローマに巨大な公共図書館を作る仕事を引き受けた。当時ぼくがローマにいたらそこで働きたかったです」
「ほう」
「ラテン語とギリシア語にエリアが分かれていて、最初の図書館がそうだったからそれ以後のローマの図書館は全部そういう区画になったんです。作家の像で飾られた豪華な建物。どの本でも読み放題。貴重な文献が山のように積まれていて。どんなに幸せだったろうと思いますよ」
「――祖父の父くらいの代だったろうか。木製の書架を馬蹄形に壁際に配置し、階段で上下に移動できるように設計した人がいる。ローマの図書館に倣ったのだと聞かされていた」
「今は少し形が違うね」
「祖父が英国留学をしてな。医療ならドイツかと思ったがイギリスびいき、イギリス気違いになって戻ってきた。それから家を改装して本も大幅に入れ替えた。和漢草紙が随分減らされてしまった。俺は小さい頃はあの部屋に入れてもらえなかったんだ」
「……もったいない! 子供にこそ読ませるべきなのに」
「いろいろとあってな。――マロが好きなのか」
空条はウェルギリウスの名を呼んだ。
「そう。そうなんです」
「ラテン語ができるのか」
「ほんの少し。独学です。大学の一般教養で授業を取ったくらいで何もわからないのと一緒です」
「……本なら幾らでもあるが」
「え?」
「海洋学にラテン語は必要だ。俺の専攻だと海の生物の学名を諳んじていなければならないからな」
「ああ……そうでしたね」
奇妙な穏やかさでふたりは会話を続けていた。
空条は花京院に向かってもうあの馬鹿丁寧な言葉使いをしなくなっている。
聞きようによってはひどく乱暴なその口調は、だが空条の雰囲気にはよく合っていた。無理な作為のないその言葉のせいで、彼が日本語を得意としていないことなど忘れてしまいそうだった。
「――わからないことがあったら教えてやる」
空条はなぜか花京院の顔を見ずにそう言った。花京院がぱっと目を見開く。
「ラテン語を?」
「ああ」
「いいんですか?」
「好きで、やりたい奴になら教えてやってもいい。やりがいがある。最近の学生はさぼることしか考えていねえ。不勉強で話にならん」
「アメリカでもそうなんですか?」
「あっちはまたようすが違うが。日本の大学生はどうにもならんな」
「……あなたは先生でしたね」
花京院は微笑んだ。憤懣やる方ない、と言わんばかりの空条を見て自分の所属大学の誰彼を思い出してそう言っただけなのだが、空条がかすかに頬を赤らめたのを見て笑いを消した。
「悪かったな、教師のくせにこんなんで」
「別にそういうつもりでは……」
「おまえだってお堅い司書のくせに、何だあれは」
「職業と――セックスは……関係ないと思いますよ」
拗ねているのだ、と花京院は思い、静かに笑った。
「あなただって海洋学者らしい仕草かどうかなど考えていたわけではないでしょう?」
「そうだな。そんな余裕はなかったな」
「――本当に? とてもそうは……」
語尾を曖昧に呑みこんで、花京院は俯いた。あけすけにそんなことを話すことに居心地の悪さを覚えたのだ。組み合わせた指をじっと見つめる。服の袖から覗く手首に拘束の痕がある。
一度熱くなった頬は意識すればするほど熱が引かない。もうさしたる抵抗もしていないのに、空条に強引に縛られた痕だった。
彼は実に工夫が上手で、どこでそんな知識を仕入れたのか、と思うような行為を仕掛けてきたり、同じようにどこでそんな品物を、と思うような道具を使ったりした。空条の用意周到さは徹底しており、花京院は空条の用意した舞台に乗ってただ踊らされているようなものだった。
さきほどまでのあれこれを思い出し、その記憶に羞恥を掻き立てられている花京院を空条はしばらく見ていたが、ソファから立って回り込んできた。
「やりたくなるな」
低い声が降って来て、花京院の頭に掌が乗せられた。驚いてよけようとすると髪の毛を鷲づかみにされて動けなくなる。
「だがおまえも疲れているだろう。咥えてくれ」
何を言われたのかわからずに、花京院が戸惑って見上げる前で、髪を掴んだまま空条は自分の前をくつろげた。屹立した性器を顔の前に出されて、花京院が絶望的な顔で空条を見上げる。うっすらと笑みを浮かべた空条は背を折ると花京院の顎を掴んだ。
「口を開けろ」
花京院が目を閉じる。口を開けずにいると顎を押さえられ、両頬を力をこめて押された。苦痛に口を開くと空条が性器をねじ込んでくる。圧倒的な異物感にえづきあげて喉を鳴らすと頬を張られた。
「ちゃんと咥えろ。さっき俺がしたようにやってみろ」
目じりに涙を浮かべて花京院が口を開けた。空条は腰の付け根まで性器を突き刺した。花京院の顔が腹につくほど押し付ける。そのままソファに押し倒すと、顔に馬乗りになって腰を上下に動かした。花京院が両手で叩くのを無視して動き続ける。
「下手糞が。教えてやるから覚えるんだ」
空条は体を引き抜くと咳き込む花京院を引き起こした。胡坐をかいた自分の股間に顔を押し付ける。手で体を支えた花京院は、空条の組んだ足が邪魔になり、腰を高く上げてはいつくばって性器を咥えた。着替えたばかりの花京院の服を引きずり降ろし、腰から膝までを剥きだしにすると空条は花京院の後ろを指で撫で始めた。花京院が尻を振って避けようとするのを片手で押さえる。
「しっかり抜けよ。後が少しは楽になる」
無理に口内をふさがれた花京院が鼻から荒い呼吸を続けている。空条の指が挿入されたとき、仰け反って性器から口を離した。途端に空条が指をもう一本容赦なく増やした。
「ううっ」
苦痛に、小さく悲鳴を上げた花京院の顔に涙が伝っているのを見て、空条がせせら笑う。
「どうした。もう降参か」
「……で、できない。どうしたらいいかわからない」
花京院は呻くような声を出した。目を閉じて半開きにした口が性器の横にある。空条は頭をつかんで咥えさせた。矢継ぎ早に指示を飛ばし、舐め方を教えこむ。生まれて初めて男性器を口で刺激させられた花京院は必死に顔を動かしていた。空条の巨大なものを口腔に収めさせられたことも衝撃だったが、空条の指が明らかに体内に侵入し、中で蠢いていることにも恐怖を感じていた。まさか空条はまたここで繋がる気なのだろうか。もう身が持たない。明日はどうしても出勤したいのに。
花京院は怯えてどうしたらいいのかわからずに一心に奉仕していた。空条に言われた通り頬をすぼめて顔を前後に動かしていると空条の性器が突然膨大さを増して口内に射精した。その感触も味もにおいも、すべてが嘔吐に直結しそうで、花京院は性器から口を離し、掌に精液を吐き出していた。咳き込んで、喉が痛くなるまでむせていると唇と掌から白濁した液体が流れ落ちた。
地下書庫で本の上に射精させられ、それを舐め取ったときのことが脳裏をよぎる。あのときは夢中で汚いとも思わずに、味などわからないままに飲み込んでいた。しかも自分の精液だった。
今は違う。穏やかに会話していた。自分が好きな作家を空条も知っていて、もっと話ができそうだった。それなのに彼はこんな風にいきなり自分に。
花京院の目に悔し涙が浮かんだ。
「飲めよ。俺は飲んだぞ」
空条が言って花京院の頬を挟んで顔を上げさせた。そのままキスをして舌を入れてくる。自分が放ったものがまだ口内にあるというのに彼は平気なのだろうか。むしろそのことに驚いて花京院は顔を振った。
「嫌か。嫌なら指をつっこんでやろうか。おまえも自分を味わったらいい」
肛門をまさぐっていた指をかざして空条が笑いを浮かべた。
花京院は青くなった顔で後ずさろうとした。膝にからまるズボンのせいで素早い行動を取れずにいる。あせっているとあっさり腰を掴んで引き倒された。ソファから床に落とされる。うつ伏せにされた背に空条の膝が乗せられた。無慈悲にも空条の体重がかけられて花京院は動けなくなる。そうして彼を固定すると空条はまた後ろをまさぐる動作を再開した。
押し込まれる指の異物感が凄まじい。乾いて長い空条の指が付け根まで入ると中で蠢いている。花京院は目を閉じて耐えていた。叫んで暴れたかったのだが、そうしたらもっとひどい目にあわされるとわかっているのだ。空条は剥き出しの性器をそのままに花京院の中をまさぐっている。
内壁をえぐるように指を動かして、背骨の付け根の方を強く押した。それまでとは違う感覚に、花京院が反応する。前立腺を触ったのだろう。花京院が動揺する間もなく、性器が勃起した。何も知らなかった体に叩き込まれた空条の「知識」のせいで刺激を受ければ反応するように変わっている。床に押さえつけられているせいで自由にならず、苦痛すら伴って熱を集めている。真っ赤になった花京院が両手で床を押して体を起こそうとする。
「っんとに敏感な体だよなあ。わざとやってるのかと思うぜ」
「……な、せ」
「ああ?」
「離せっ」
「ここまで来て今更何を言ってやがる。俺を満足させられなかった癖に。仕方ねえ。勝手に満足させてもらうぜ」
空条は時間をかけて後ろを解した。花京院は射精しそうな快感を与えられながらできないことで苦痛にすら感じられるその感覚に耐え続けた。
もう何を言っても空条の手は止まらない。何か一言、決定的な一言でこの責め苦から解放される、けれどもそれがどんな言葉かわからない。どこか場違いな、けれども満更誤ってばかりはいない、その思いが花京院を支配している。
空条は既に息も絶えだえな花京院の腰を掴んでそこだけ突き出させると自分の性器を問答無用で侵入させた。
男でありながら男に受け入れさせられていることを、まだ信じられずに花京院が叫ぶ。
「やめてくれ!」
悲鳴のようなその叫びは次第に大きくなって行く。
「いやだっ! やめてくれよ!」
空条は深々と埋めた性器をゆるゆると動かし始めた。
「無理だ、いや……助けてくれ!」
さきほどまで指が数本入れられていた場所だ。そのときの壮絶な違和感は、実際に巨大な性器が挿入された今となってはお笑い種だった。激しい苦痛と違和感に全身を支配される。
彼はどうしてこんなに体に執着するのだろう。
自分を苦しめるためにしているのだろうか。
花京院は手をついて体を起こそうとした。途端に太い腕に止められる。背に押し付けられた掌は頑として動かない。
「こんなこと、しなければいいのに」
花京院は思わず泣き言を口にした。
「俺はやりてえ」
空条が答えを返したことに驚きつつ花京院は床を叩いた。
「ぼくはいやだっ」
「……まだ痛むか?」
「痛い」
「薬を使うか」
「薬っ!?」
花京院の声が裏返る。空条は体を動かしながら淡々と話している。
「そんなもの……」
「痛いだけなら楽しくはないだろう」
身勝手に体を使われているとだけ思っていた花京院は拳を握った。こちらを気遣っている? まさか。
「おまえのここは狭いから筋弛緩剤を使っても変わりはあるまい」
「何、それ」
「簡単に言うと体の力が抜けて眠くなる。多めに打てばすぐ死ねる」
「どうしてそんなもの持っているんだ」
「犯罪用」
「……君は……」
背中を押さえた空条の手に力が入った。息遣いが苦しげに変わる。揺さぶられながら違和感と激痛に耐えていると空条が低く呻いて花京院の中に射精した。その感触が異様に生々しく腹に伝わる。一体何回そうされたのだろう。動きを止めた空条の手がそれでも腰を掴んで離さない。
下半身だけ剥かれて、床に縫いとめられるように動かれて、自分はどんなにかみっともなく惨めな姿をしているだろうと花京院は涙のにじむ目を閉じて唇を噛み締めた。
起きるなりこれだ。
一緒にいる間中、空条は花京院に手を伸ばすのをやめなのだ。これまでに自分の体にされたすべてのことがもう覚えきれないほどの量になっている。
彼に二度と会わずに済む方法はないものかと拳に力を入れていた。いや、会ってもいいのだ。彼に会い、顔を見て、話をするのならそれはいいのだ。むしろ望ましく幸せなのだ。だが彼が自分にしかける無茶な行為をやめさせる方法はないのだろうか。
こんなことをしなくたって自分は、もう。
花京院はそう思い、無念さに暗く塗り込められた思いを必死に押し込めようとした。横倒しになった頬から涙が床に零れ落ちる。そうしていてもほこりひとつない床は清潔に磨かれている。それをしたのは「手伝い」の人なのか空条自身か花京院はぼんやり考えていた。
空条が体を引き抜いた。体内を性器がずるりと動く感触に花京院は身をすくめた。腿の裏に空条の性器が当たる。冷たく濡れたその感触はどうにも慣れようがないものだ。
もういいのかと花京院は足を引き付けて起き上がろうとした。
その腰を掴んで空条の上に持ち上げられた。体の前に横抱きにされて強く抱かれる。思わず顔を見上げると、空条はすぐに目を逸らした。
「……射精すれば『満足』なのか?」
花京院はぽつりと言った。涙が止まらなくなっている。
モノみたいに扱われ、問答無用で転がされたことがどこかで花京院を深く傷付けている。それと同時にそんな風にしか関わってこない空条への哀れみが圧倒的に強かった。
痛みや傷は時間がたてば消すことができるかもしれない。
だがこんなふうにしか動けない空条はこの先どうしていくのだろう。
犯罪の被害者のはずの花京院はいつの間にか空条の身の上を心配さえしていたのだ。
ストックホルム症候群か、花京院は自分を笑い、涙で汚れた顔を手で覆った。
「……帰るよ」
「ああ」
「タクシーを呼んでくれないか」
「俺が送る」
「――ひとりで帰らせてくれ」
花京院は静かに言った。
「君はぼくをいつでも自由にできるんだろう? これから先も。君に嫌われるようにするにはどうしたらいいかずっと考えているんだけど」
「……何か思いついたか」
「わかったら実行している。君は……」
花京院は沈黙した。
空条の目が暗く翳っている。
「俺が、何だ」
「――どうしてそんなに閉ざされている? ぼくといてもひとりぼっちでいるみたいだ」
空条が目を逸らす。
「……帰るよ」
「ああ」
花京院の言葉に頷きながら、肯定しながら、空条は花京院を離さずにいつまでも抱きしめている。
別れが辛くて取りすがっているみたいだ、花京院は思い、冷えてきた下肢を丸めて抱かれていた。
空条が何を思ってそうしているのか、どうして自分が逆らわないで大人しくしているのか、何もかももうわからない。

……結局その夜も、花京院は解放されなかった。

 

 

 

 


翌日、空条に送られて職場に復帰した花京院は職員たちの歓迎といたわりに包まれて密かに胸を熱くさせられた。口々に快癒を祈り、気遣う言葉をかけられて、まともな感性の人間たちと過ごす幸せを感じていた。
「空条先生がとても心配されていて」
あの児童文学担当の女史が豪快に笑う。
「良かったですね、ちょうど居合わせてくださって。車も出してくださったし」
「そうですね」
花京院は苦い笑いを頬に刻んだ。その空条のせいで自分がどんな目にあったかを彼女に伝えるつもりはなかった。
「先生のことしっかり抱いて一所懸命走っておいででした。普段は怖い顔で近寄りがたい雰囲気なのに、とても優しいところのある人なんですね。意外でしたよ」
「ええ」
「でも本当に無理しないでくださいね。言ってくだされば私たちも手分けして一緒にやりますから」
「ありがとうございます。声をかけさせていただきますから、ぜひお願いします」
花京院は頭を下げて礼を言った。
平和な人々の中にあって愛する書物に囲まれているとここ幾日かの悪夢すら忘れてしまえそうに錯覚する。実際にはまだ傷が残り疼く体を持て余していた。

以前使っていた眼鏡は、やはりあの書庫に落ちていた。
最上位権限のIDカード。花京院の誇りが集約されたそのカードで、地下書庫に立ち入ったのは花京院なりの自分への挑戦だった。あの惨劇の場所に果たして自分が立てるかどうか。空条と並んで歩いた道のりをひとりで歩いて行きながら、あのとき彼を伴わなければこんなことにはならなかった、と激しい後悔を繰り返していた。

あのときは、空条は風変わりな、けれども普通の来館者で、他大学の研究者で、つまりは「その他大勢」のひとりだったのだ。その彼がいきなり自分に牙を剥き、絶望的な状況に自分を突き落としてのけたのはまだそれほど過去の話ではない。まだほんの数日なのだ……。
誰に話すこともできないその苦痛に満ちた体験を、もう一度実際の現場で思い出したときに、一体自分がどうなるか。花京院は青ざめた顔で、それでも力の蘇った目で腹に力を込めてドアを開いた。
あのとき空条が。あのとき自分が。

突きつけられる現実の重さに花京院は背を震わせた。
あのとき血で汚れた床が気になっていた。強い照明のもとで見ればかすかに血痕が残されている。固い床の材質から、洗剤で強く磨けば落ちるだろう、と花京院は思い、それよりも監視カメラが常時撮影している廊下の映像を誰にもとがめられなかったことに安堵していた。部外者の空条が自分と一緒に出入りしているは撮影されているはずだ。映像は大学の警備センターに集められ、問題があれば再生される。画像の保存期間は一週間とも一ヶ月とも言われているが、今のところ問題視されてはいないのだろう。

警察に駆け込まなかったのは、自分の弱さの現われだ。花京院は今でも悩み苦しんでいた。いっそ正直にすべてを話して空条のもとから強制的に司法の力で本を取り戻すべきだと思ってみる。だがそうはしたくない自分、今の職場をとても愛し、それゆえに失いたくないと考えている自分がいる。ぼくは卑怯だ、花京院はそう思い、空条の悪辣さを攻撃することで自分の惰弱さを忘れようとした。
それでも歴然と残る事実は花京院を打ちのめす。
自分の弱さのみならず判断の甘さが招いた事態だ。

花京院は深い溜息をついて、清掃用具を準備した。汚した痕跡を完全に消すために床にきれいに拭き続ける。乱れた本は書架に戻してあの酸鼻な経験をかき消した。記憶からもこうして拭い去ることができればいいのに。花京院はそう思い、用具を片付けて地上に戻った。

休んだ間の埋め合わせをするように必死で書類を片付けて、連絡を関係機関に入れ、通常職務もこなしながら、花京院の下肢は痺れたような鈍痛を訴え続けていた。椅子にかけているのがひどく辛い。酷使し続けた下肢は歩くのも辛いほどで普段の身軽さはどこにもなかった。周囲に気付かれないようにと気を張って平常を装っていたけれど、午後も遅くなると重たい体が悲鳴を上げ始めていた。

風邪で欠勤したことになっていたので、幸いそんな花京院の変わったようすも同情を惹いていたようだが、空条との爛れたような数日間が自分を確実に変えてしまっていることを花京院は知っていた。
それまでの何も知らなかった自分にはもう戻れない。
人の心の闇を知り、それが自分の中にも秘められていたことを空条の手で引きずり出された。

人が人にかける「思い」の怖さを叩き込まれたと言ってもいい。空条が自分に向ける執着ほど強い関心を誰にも持たれたことがなかった花京院は、初めて他人の意志に負けたのだった。

だが、本を取り返すこと、それだけは折れるわけにはいかなかった。最悪、媚を売ってでも、靴を舐めるような真似をしてでも、と覚悟を決めてはいたのだが、共に過ごした僅かな時間で空条の性格を読みきっていて、そこに突破口を見出していた。

彼は何かでひどく傷付いている。もう癒しようがないほどの深いところに傷がある。高い知性や行動力がそれをかばったり癒す方向に機能せず、マイナスに作用してしまっている。
彼は自分を守り自分の意のままにしているつもりでいて、その傷に振り回されているだけだ。
本当の彼はあんなに冷酷で計算高い男ではない。それは花京院の直感だった。でなくては、どうして自分が僅かにでも好意を持って側にいることを楽しいと思えた日々があっただろうか。

空条の示す残酷さは、彼自身を損なっているとしか花京院には思えなかった。だがそれも花京院に示されるのでは彼は認めようとしないだろう。自分で、我が身で知るしかないことだった。しかも深手を負った空条は、癒されようとは思っていない。優秀な頭脳の彼のことだ、もしかしたらそのていどの自己分析はとっくにできているのかもしれない。
それでも彼は彼なりに、安易な方向に逃げている。
自分と同じだ……。
いろいろなものから逃げている。
彼は関係を結ぶ前に暴力に頼り、自分は関係を結ぶ前に何もかもを遠ざけている。
人を支配するのも拒むのも本質的には一緒だった。なぜならそこに対等な関係性はないからだ。
空条が自分に目をつけて闇の世界に引きずり込んだのは許せないが、彼からしたら簡単に陥落可能に見えたのだろう。それは自分の甘さであり、空条との同質性を示すものかもしれなかった。自分がそうだからわかるのだ。空条がしていることは他人への痛烈な拒否と同等だ。相手を見ず、自分の望む幻想を相手に描いているだけだ。そうして自分は強いられた苦痛と快感の狭間で溺れるだけで空条自身をまだ見ていない。
仮面をかぶったままの奇妙な性交。
あれほどに肌を近付け、唇を重ね、性器を結合されながら、まだ自分は空条を何も知らないままでいる。
花京院はそう思い、手にしたペンを強く握った。

ゆっくりと時間は過ぎ、長い一日がやっと終わった。
花京院は周囲からかけられた体をいたわる言葉に礼を言いつつ、定時になるとすぐに退出した。普段は残業をしているのにこんなに早く上がるのは久しぶりだった。明日はもう少し頑張れそうだと思いながら、残した仕事の明日の手順を考えていた。
だから気がつかなかったのだ。図書館の前の道路に空条が立ち、自分を待っていたことを。無視するつもりはまったくなかった。ただ考えにひたっていて本当にわからなかったのだ。暮れなずむ夕景の薄暗さも災いしていた。空条は普段の白いコートではなく、黒いスーツで立っていたのだ。

花京院を迎えに来て、大人しく彼を待ち、あまつさえ目の前を黙って通り過ぎられて、それが空条の逆鱗に触れたらしい。この空条が迎えに来てやったものを、ということだろうか。我に返ったとき花京院は腰を空条に抱えて持ち上げられていた。そのまま抗議も虚しく足早に運ばれて、駐車場まで「持って」行かれた。真っ赤になった顔で腕を叩き、脚をばたつかせる花京院に構わずに助手席に彼を放り込むと、空条は運転席に乗り込んで乱暴に車を発進させた。慌てた花京院がシートからフロントガラスに叩きつけられそうになっても速度を落とさない。
「……考え事をしていたんだ」
「うるさい」
「君がいるなんて知らなかったんだよ」
「よく言うぜ」
「本当なんだ。……今朝まで一緒だったじゃないか。どうしたんだ」
空条は凄い目で花京院をにらみつけた。
「おまえに会いたかったからに決まっている」
「――学校は。君、ちゃんと働いているんだろうね?」
「おまえには関係ない」
「大ありだよ。君が――空条博士が男とつきあって素行が悪くなったなんて言われたら困る」
「おまえごときで素行が悪くなるような俺じゃねえ」
「……そう願うよ」
花京院は鞄を膝に載せたまま窓の外を見守った。遣る瀬無い表情がガラス窓に映じている。目を伏せて、長い睫の作る影が濃い。本当は早く帰宅して、ひたすら眠りたかったのだ。体の痛みも、辛い記憶も追いかけては来ない夢の世界に行きたかった。横にいる空条を嫌悪し、憎み、恨みながらも魅入られて離れられなくなっている自分を花京院は哀れんだ。
彼の与える屈辱も苦痛も、今更避けたところで知らなかった自分には戻れない。彼の意志に従い、彼の意のままに体を屈曲されることは確かに放埓で淫靡な歓喜を自分にもたらしている。自分は堕ちてしまったのだ、そう思い自分を鞭打つ花京院の、だが表情は静かで清潔なままで、そうしていると美しい少女のように純粋で潔癖な昔の花京院と変わらない。
その静けさを空条は愛し、憎んでいた。
これまで誰を相手にしても冷静に弱点をはかり計算通りに動かしてきた空条が、初めて自由にならない、動かし難い人間に会い、焦慮を募らせているのだ。
最初はただの不満だった。自分に振り向かない、どころか眼中にないような花京院の態度に軽く腹を立て、少しずつ間合いを詰めていったのだ。そうしてアメリカ帰りの自分からすると信じられないほど無防備な彼を暴力で辱め、屈服させた。だがそうして征服したと思った瞬間、花京院は自分の包囲を逃れ、柵の向うで笑っているのだ。
あのときささやかれたあの一言。
自分の弱点を見事に突いて心を切り裂いてのけた言葉。
あの言葉は空条の一番柔らかいところをしたたかに打擲した。彼のようにおっとりと無垢な人間から示されるには余りに痛い予期せぬ言葉。
いつだって誰に対しても上手に出て軽々と操作してやった自分なのに。
空条の不安、懸念の種類は自分で分析する限り、最もたちの悪いものだった。それに足を取られたらどうにもならない泥沼になる。わかっているのに花京院から離れることができずにいる。
――恋。
これは恋だった。
空条は胸の中で舌打ちした。自分が恋だと? それこそ悪魔の恋だ。翼ある者に横恋慕して無理に地上に引きおろした、俺は天使を穢す悪魔なのか。
乱暴に運転しながら空条は唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 


そうして冒頭のシーンに戻る。
不機嫌に花京院を空条邸に連れ戻すと、空条は彼を椅子に拘束し、責め苦を与え続けたのだった。
射精のタイミングを指示するなど邪悪どころか滑稽だ。自分を嘲り笑いながら、ともかくも花京院を手中に収めたことに満足し、空条は花京院にささやいた。
「よし。きちんとできた褒美にどれか拘束を外してやろう。どれがいい」
言いながら空条は花京院の体に触れていく。花京院は動かない。目、口、腕、……背中に触れたときに体をよじらせた。萎びた性器が濡れて光る腰をしきりと蠢かせている。
「ローターか」
花京院は頷いた。
「いいだろう」
空条は花京院の背中をつかみ、腰を僅かに浮かせてやった。長い指を差し入れて中に押し込んだ電動器具についた紐を引く。肛門からゆっくりと引き出してやる。鈍いモーター音を立てるそれのスイッチを切ると空条は床に放った。
「余り長い間入れておくと刺激になれて麻痺するらしい。おまえは敏感な体をしている。余り長く入れておくのは辛いだろうな。……もうひとつご褒美だ」
花京院がそれを聞いて体を跳ねさせた。
空条は巨大なディルドーを取り出して花京院の尻に挿入した。体をもがかせるのを押さえて根元まで押し込むと、抜け落ちないように腰に回した用具で固定してからスイッチを入れた。途端に花京院が激しくもがいた。
「私では嫌なのだろう? 機械なら文句を言わず幾らでもおまえを満足させてくれるからな。しばらくそうしているがいい」
空条は大声で笑い、目をぎらつかせてその無残な光景を眺めている。花京院の首筋が真っ赤に染まっていく。荒かった呼吸は全力疾走の後のように間歇的にせわしく繰り返されている。その音が異様に大きく室内に響いた。電気仕掛けの醜悪な玩具は動きを止めない。
空条はアイマスクを引き剥がした。途端に大きな目から涙が飛び散った。紐をほどいて顎を押さえ、ギャグボールを取り出すと花京院が絶叫した。
「もうやめろ! やめてくれ! 体がもたない! 助けてくれっ」
首を左右に振って叫び続ける。
花京院の股間がまた反応し始めていた。それを見下ろして花京院の目が張り裂けそうに見開かれる。
「もう嫌だ! 助けてくれ……!」
空条は椅子を花京院の正面に置くと背もたれに顎を乗せて見守っている。無表情な顔の中で目だけが強い光を放っていた。
「いい眺めだな」
「頼む。頼むから……」
紅潮した顔をそむけて花京院が懇願を続ける。
さきほど二度も達したというのに、股間は既に限界まで反応していた。
「素質があったということか。数日でこれほど開発されるとはな。これまで禁欲ぶっていたのは実にもったいなかったな、花京院。おまえの体なら確かに生身の人間では物足りないかもしれないな」
「やめてくれ」
言う息が上がり、淫猥な動きで花京院が腰を揺らす。
「……も……う……ああっ! 承太郎!」
空条の名を呼ぶと花京院が体を倒した。がくがくと揺れる腰とは別に、顔には耐えるような、何かに祈るような表情が浮かんでいる。それまで空条の名を呼んだことすらない花京院の呼びかけに、空条は敏感に反応していた。
「どうした。まだ足りないか」
「ち、ちが……違うっ」
花京院の目から一筋涙が落ちた。それがまっすぐに膝に落ち、割れて白く飛び散ったのを空条はうっとりと目で追っていた。
「いやだ、機械なんか。こんなオモチャでいかされたくな……ああっ」
「だが私よりはいいんだろう? さっき抱こうとしたら殴られたからな」
「あれは――あっ、承太郎っ! 頼む、頼むから」
煽られ続ける花京院の目付きが怪しくなっていた。あまりにも淫蕩な表情に変わっている。極端な刺激を受け続けているのだ。今にも失神しそうなほど全身を震わせていた。空条はそれでも自分を抑えて見守っていた。次第に乱れていく花京院の妖艶な姿に、むろん空条とて激しく興奮はしているのだ。花京院が普段スーツで身を鎧い、糞真面目な顔に眼鏡をかけてストイックなまでに仕事に打ち込んでいたのを思い出し、空条は目の前の姿との落差に異様な昂りを覚えていた。こんな花京院は誰も知ってはいないのだ。大股を開いて縛られて、玩具で煽られる姿など。自分の口淫や手淫によがり、吐精して息をつく姿もそうだ。誰も知る由もない。
涙と涎が止まらなくなり、花京院が気絶しそうになるまで空条はそのまま耐えて待っていた。喉を反らして花京院が叫ぶ。三度目に達した後は深くうなだれて体をがくがく動かしていたが機械的な反応に変わっていた。
椅子を立って近寄り、髪の毛をつかんで顔を上向にさせた。意識を失くしたようすで、薄目を開けたまま反応しなくなっている。汗と涙と涎で、水を浴びたように顔も体も濡れていた。空条はやっとベルトを外し、玩具を引き抜いて電源を落とした。それも床に落とすと花京院の拘束を上から順にほどいていく。長い間縛められていた腕は赤く腫れあがり、革のベルトの痕がくっきりとついていた。脚も同様に腫れていた。
意識のない花京院を持ち上げて肩に乗せると空条はそのまま浴室に連れて行った。予め湯を張って入浴の用意はしてあるのだ。着衣のままの自分の体が濡れるのも構わずに花京院を丁寧に洗い、湯船に浮かべた。まじまじと見守る白い体はやはりどこか未成熟な印象を持ち、薄い肌に残された行為の痕が煽情的に赤いアクセントになっている。
刺激に弱い、というよりは快楽に弱いと言うべきだろうか。苦痛にも快感にも無抵抗の花京院はあの手の悪戯にひどく弱かった。
ここ数日間、空条に使われ続けた花京院の後ろは湯の中で指を差し入れても抵抗なく受け入れるように変わっている。そうしても腸の内容物すら出てこない。花京院は絶食が続き、さらに空条に洗浄されて直腸は空になっていた。ただもう挿入されて使われるだけの数日間だったのだ。湯船の中で完全に昏睡している花京院は空条の指にも反応しなかった。死体のように湯の動きにつられて白い体がゆらゆらと浮いている。沈まないように首を支えた手を離し、水中に沈めてやりたい衝動を空条は必死に押さえた。湯船の底で薄い茶色の頭髪をそよがせて横たわる花京院はさぞかし人魚のごとく艶やかで奇妙で死への誘惑に満ちて見えることだろう。
伝説のセイレーンというのも、ただ歌が好きで歌っていると愚かな船乗りが勝手に聴き入り、勝手に座礁して死んでいくものらしい。花京院もそうだ。ただそうしているだけでたまらなく人を煽る。そのうち職場でも彼の変貌に注意が向けられ、この色香に迷わされる男が出てくるのではないか。空条は思い、真っ白な胸に咲く薄紅色の突起に指を触れた。どこもかしこも鑑賞されて触れられるのを誘うようにできている体だ、と思う。これまで誰とも何もなかったのは花京院からまわりの男を守るための天の配剤だったのか、と空条は思っていた。
だがこれは俺のものだ、俺ひとりのものだ。不意に突き上げた凶暴な衝動に任せて、空条は花京院を掬い上げ、着衣のままの胸に濡れたまま抱き上げた。そのまま浴室を出てずぶ濡れの体を寝台まで運ぶ。放り投げるように置いた花京院の体の上に乗り上げて、狂ったようなキスを降らせた。
今なら認められる。多分俺は――愛している。花京院を。この男を。無抵抗を装いながらじわじわと俺を侵食し、自分なしではいられなくさせてしまったこの男を。わずか数日だ。数日でこれだけ離れ難くさせている。
最初は食い散らかして捨てる気だった。凍った花が溶けたなら、後は萎れて腐るだけだ。こいつもどうせそうだろうと思っていた。
それなのに。
追えば追うほど遠くなる。
俺よりも小さく、俺よりも弱い。本気を出さずとも簡単に始末できる。息を荒げながら前をはだけると空条は性器を花京院の後ろに押し付けた。尻を手で広げ、性器を挿入していく。こうして繋がってみたところで、そうだ、こいつの宣言通り、こいつ自身には一指も触れてはいないのだろう。花京院の中は熱く、狭い感触で空条を包み込んだ。本来用いるべきではない箇所を不自然に広げて、花京院に負担を強いながら繰り返し犯してしまっている。
そうしていながらまだ花京院が遠く感じられ、空条は腰を打ちつけながら胸の痛みに耐えていた。
彼だけが自分にそんな感情を呼び起こさせる。彼だけは自分を置いて立ち去りはしないかと不安に怯えさせるのだ。
意識のない体を使いながら、いっそこのまま、と細い首に両手を回していた。得られないのなら壊してしまえ、と短絡する自分を笑う余裕はなかった。少しずつ力をかけていくと、突然花京院が咳き込んだ。咳の都度、彼の体内にある空条の性器に激しい刺激が加えられて、あっけなく射精していた。顔をしかめた花京院が目を開く。
「……な……に――してるんだい」
苦しそうな声で言いながら、花京院がかすかに微笑した。爛れた関係に溺れきった空条と自分を哀れみ悲しむかのように。その笑顔が余りに赦しに満ちていたことが、空条を決壊させかかった。かつて誰からも与えられなかったその赦しの何と容赦なく苛烈な力に満ちていたことだろう。
花京院が、君にできるのは自分の体を壊すことくらいだ、と言ったのは本当だった。
花京院を殺したとしても、遂に彼は手に入らない。犯して壊したその先に、何が待っているというのだろう。空条は組み敷いた体に入ったままで花京院を抱きしめた。
欲しかったのは心だった。それならばなぜ心を得られるやり方で彼に近付こうとしなかったのか。……今ならわかる。心が欲しいと思わなかった。心を欲しいと思う自分を、自分は知らずにいたのだから。だからあのように無残なことを。空条は歯を食いしばり、その隙間から押し出すように声を出した。ひどくしゃがれた声だった。
「花京院」
「はい」
「……本を、……返す」
「――本当に?」
「ああ」
「……いいのかい」
「――いい」
花京院は空条の体に腕を回して強く抱いた。それからわななくような長い長い溜息をもらした。
「……ありがとう」
ささやきを耳に空条は陥落させられたのは自分なのだと痛烈に感じていた。
「礼を――言われるおぼえはねえ。俺はアメリカに戻る」
「……」
「鍵をやる」
「?」
「ここの鍵だ。ときどき来て鉢植えに水をやってくれないか。人を頼んで手配していくのがかったるい。図書室の本は全部おまえにくれてやる。俺の詫びだ。どれでも好きに持ち出して構わない」
「そんな――!」
「俺にはもう用がない。全部やる。だから……」
だから自分を赦してくれと、空条は続けることができずにいた。
花京院を抱く手が僅かに震えている。重ねた互いの肌の熱さを強烈に意識させられた。この熱を欲しかった。ただそれだけだったのではないだろうか。
「前に、君を殺すと言いました」
「ああ」
「――ぼくはそんな人間ですよ」
「……ああ」
「本なんかで帳消しになると思うんですか。あれだけのことをして」
「――わからない」
「人の心がつけた傷は、人によってしか治せないんですよ。自分はアメリカに戻り元の生活を続けるんですか。ぼくはどうなる? ――君なしでいられなくなっているかもしれないのに」
空条は跳ね起きた。
「……俺は、俺のほうこそおまえなしでは――だが赦してもらえるとは到底思えない。おまえの前から消えるのが一番いい謝罪になると思っていた」
「消えられるんですか……?」
花京院は静かに尋ねた。
「それでいいの? 本当に? もし腹の底から納得していてそうしたいのならぼくは止めない。もともと君が仕掛けてきた関係だ。君が解消したいなら……ぼくは……」
「腹の中で舌でも出してざまあみろ、とおまえが思っていてくれたらいいと俺は思う。そうしたら別れがこんなに辛くない。だが……」
「ぼくは君を許しません。だけど君を受け入れている。選ぶのは君だ。好きにするといい」
空条の性器がまだ入ったままの体を、花京院は起こそうとした。肘をついて半身を持ち上げると笑い出した。
「ぼくたちびしょぬれだ」
「風呂に入れた」
「拭かなかったのか」
「待てなかった」
「寝台が……」
「そんなものはどうでもいい」
引き抜かれるのが嫌だったので空条は花京院の体を押さえつけた。細い腰を抱いて背中を丸め、胸に顔をつける。花京は院逆らわずに空条の頭に手を乗せた。
「……可哀相にね」
「俺のことか? ――なぜ」
「君を気の毒に思うから。……いつか君が本当に愛せる人が現れるといいね」
「まるで愛について知っているかのように言うんだな」
「ああ。ぼくは愛を知っている」
「誰も愛したことがないはずなのに?」
「君を愛した。それで十分なんじゃないかな」
空条は体を引き抜いた。花京院がその感触に身震いする。
「……こんなことをされていてもか?」
「体にされることは、ただそれだけのことだ。それは過ぎれば忘れられる」
横たわったままの花京院は呟くように言った。
「君が苦しんでいることがよくわかるんだ。それがどうしてなのかわかればいいのにと思っていた。君はとっくに目的を果たしているんだよ。ぼくの考えることといったら君のことだけになっているんだから。こんなことをするのは何故だろう、どうしてだろうと考えている――いつになったら気がつくのかなと思っている。ぼくは最初から君を赦していたのにね」
余りにも意外なその言葉に、空条はただ花京院を見下ろしていた。
「でも君はそうしてぼくが君に心を開こうとするとぼくを残酷に扱うんだ。振り向かせるために近付いたのにいざ振り向くと拒絶する。君はぼくを凍った花だと言ったよね。でも凍っているのはどちらだろう。怖がっているのはどちらかな……? ぼくは君を気の毒に思う」
足を立てて肘をつき、花京院は体を起こした。固まっている空条の唇にキスをする。
「本を返してアメリカに戻って、それで君が幸せなら構わない。選ぶのは君だ」
空条の大きな掌に指をからめて花京院は手の甲をそっと撫でた。
「もういいんだ。ぼくはどちらでも構わない。――君がいなくなったらぼくは元通り図書館でがむしゃらに働くだけだ。この先もう誰ともこんな風になることはないと思う。性愛はただそれだけのものでしかない。互いが心を開いているのでなければね。それがわかった。君は自分で閉めた扉の前で扉を壊そうと暴れているだけなんだ。君を愛して初めてわかった。君の本当の望みを、ぼくは知っている。前に言ったね、そうなんだろう?」
空条は目を伏せた。長い睫が頬に影を落としている。優しい言葉で、静かな口調で、だが今攻撃しているのは花京院の方だった。非力で弱いと嘲笑されて体を自由にされ続けた、痩せた司書の方だった。
「だから、誰か本当に愛する人ができればいいと願っている。そうしたら君にもわかるはずだから。君はただ怖がっていただけなんだ」
手を離すと花京院は寝台を降りた。
「さあぼくは帰るよ。明日からまた仕事がある。君もそうなんだろう? 日本に戻って所属を変えて、そこの仕事に責任があるんだよ。やたらにあちこち動くもんじゃない」
手足の痣が痛々しい姿で、花京院はうなだれた。
「……何だか変だな。君に失恋したような気がするよ」
「――俺もだ」
ぽつりと言った空条も寝台を降りた。脱ぎ捨てた服に構わずにバスローブを引っ掛けると奥の図書室に入っていく。ややあって一冊の本を手に戻ってきた。服を着ていた花京院にそれをかざして見せる。花京院の頬がぱっと紅潮した。
差し出された本を受け取る手が震えている。
「いいんだね?」
「ああ」
一度本を胸に抱いてからあちこちひっくり返して点検している。花京院の目が厳しくなっていた。
職人の目だな、と空条は思い、自分もローブを脱いで服を着始めた。
納得したのか溜息をつくと花京院は寝台に腰掛けた。脱力したように肩を落として膝に載せた本を見つめている。
「行こう。家まで送る」
「……ひとりで帰れる」
「これで最後だ。送らせてくれ」
ぶっきらぼうに言う空条を見上げると花京院は黙って顔を見つめた。長いことそうしていて、沈黙に耐え切れなくなった空条が口を開こうとしたときに、花京院は頷いた。空条は詰めていた息を密かに吐いて顔から表情を消していた。
肩を並べて歩きながら、これで他人に戻るわけか、と空条は考えていた。この数日間の激変は一体何だったのだろう。あの地下書庫で突然始まった奇妙な関係。本を盾に取り花京院を自由にしたのが幻のように遠く思える。
家を出て、もう夜も遅いことに気がついて、そういえば彼とは殴り合っているか性交しているか、それしかしていなかったと空条は思い、この関係の異常さを始めて笑う気になっていた。
手に入らなかった。
いや、手には入ったのだろう。彼は自分を赦している、愛していると口にした。だがそれは言葉でしかない。彼が何を思いどういうつもりで口にしたのか自分にはかる術はない。
あれほど残酷に体を開き、殺してやると恨まれたことを空条は忘れたわけではなかった。
花京院の方便で、自由になるために嘘をついたのか、それとも百歩譲って本心なのか、確認する手段はない。空条にはもう何もわからなくなっていた。
車を出して運転しながら、アメリカに行くことを本気で検討する。やってできないことはない。元の職場に復帰することも簡単だろう。もともと確たる理由があっての移動ではなかったのだ。既にグリーンカードを持ち、あちらに生活の基盤もある。
理由と言えば花京院ただひとりだけだった。
安心したのか眠そうに目を瞬いて、それでも本の入った鞄から決して手を離さずに、花京院は隣に座っている。そうして彼を乗せて街を走ることももうなくなるのかと思うと、空条は本を返した自分が信じられなくなっていた。
おそらく自分は人生で生まれて初めてのことをしたのだ。罪悪感から返却した。罪の意識をはっきりと感じ、花京院にすまない、と思ったのだ。それはありえない感情だった。何もかもを掴み取り、意志に従えて蹴散らすこと。そうやって生きてきて、それで何らの不都合も痛痒すらも感じなかった。他人はすべて下僕と同じで利用して動かすチェスの駒のようなものだったのだ。
それなのに、花京院には最後まで徹底することができなかった。
陥落させられたのは自分なのだ。
空条は激しい喪失感に耐えていた。
これまでの自分を完璧に否定してのけた花京院。
自分のやり方、自分の方法がまったく通用しなかった花京院。
彼を恋しいと思い、求めてやまない胸の内を、しかしそのまま露わにするには空条は残酷すぎることをしてきた。花京院は自分を決して受け入れないだろう。空条はそう思い、切り捨てられる前に自分から、と思わず口を開いていた。
「もう、会わない」
不意にそんなことを呟いていた。
「あの図書館にも、もう行かない」
苦しさが言わせたその言葉は、しかし本心とは逆だった。
行かないでくれ、捨てないでくれ、と脚にすがって叫びたかった。
俺を愛してくれ。
その一言を空条はどうしても口にすることができずにいる。
花京院はゆっくりと空条の方を見た。
運転する空条の肩にひどく力が入っている。叱られた子供がすねているような、そんな表情を見て花京院が声を立てずに笑いを浮かべた。
「そんなこと言わずにまたおいで。……図書館に来るんだよ」
「――それは……」
「本を読みに、資料を借りに。目的は何でもいい。……待っているから。ぼくはいつでもあそこにいるから。ぼくに、会いに来るんだよ」
眠そうに呟くと、花京院は目を閉じた。空条は震える声で呼びかけた。
「花京院」
だが既に眠りに落ちた花京院は答えない。
「……俺はおまえに、会いに行ってもいいのか――?」
普段の彼を知る者がいたら耳を疑ったであろう不安と猜疑に満ちた声で空条は呟いた。
「おまえに会って、言葉を交わし、本を間に話を続けて、そうしてまたなと言いあって……そんなことが許されるのか……?」
わななくようなかすれた声は幼い響きを帯びていた。
恋を知ったと思ったときには自らの手でそれを破壊するような真似をしていた。取り返しがつかないと思えば思うほど恋する相手を残酷に扱い、それなのに心を寄越せと強要していた。愚かだと、無益だと気がついたのは花京院が自分を無限に受け入れたからなのだろう。
完敗だ、空条は隣に横たわる細い姿を視界に入れて、その姿がぼやけることを怖れて涙を急いで拭いていた。何かがふたりの間で起きたのだ。
それなしにはいられない、得がたく貴重な、何かが。
空条は募る予感に胸を焦がしていた。
花京院なしではいられなくなるのではないか、という予感。この人を欲しいと思い、手に入れて、そうして飽きたら捨てようと考えていた。そのかつての自分、ほんの数日前の自分を転生前の別人のように思い、戻れるのなら過去に戻ってやり直したいと考えていた。
やり直せるのなら、自分は。
考え付く限りの優しさをこめた言葉と行動を花京院に与えよう。
彼が望み、意図するように自分はどんなことでもしてやろう。
空条の心の一番深い場所で人を求めて泣き叫んでいた、飢えた子供が今やっと静かになった。
与えて、与えられて。求めて、求められて。心を交わすことのできる誰かに今やっとめぐり合えたのだ。
心の奥の一番柔らかい場所でそっと育んでいた優しいもの、暖かいものを差し出すことができる人。そうして受け取ってくれる人。
閉ざされた場所で、閉じられていた書物の、一ページ目が開かれようとしているのだ。
そこに書き込むべき物語は、これからふたりで作るのだろう。
自分の邪悪さも卑劣さも、すべて見たはずの花京院が、自身の投げかける光によって空条までも清めたかのように、空条の心は空になり、今初めて世界を見渡しているような胸が開ける感動を味わっていた。
閉ざされていたのは自分だった。
凍っていたのは自分だった。
自分の内なる閉ざされて、凍った花を暖めて、明るい場所に誘ったのは、弱く、小さく、無力なはずの今横で眠るこの人だった。
この世でただ一人、この人だけを。
――愛している。
空条はできるだけ静かに運転して、花京院の眠りを醒まさぬように気をつけながら、あふれる涙を拭い続けていた。

静かに眠る花京院の口元に優しい微笑が浮かんでいる。
――愛している。
起きたら一番最初にそう言おう。
愛して、いる、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

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